礼拝説教


2012/12/9 <待降節第2主日>

「心貧しい者の幸い」

マタイ福音書13:53~58

  吉川 幸子 先生


◇ナザレでお育ちになった主イエスのお働きは、先ずその地ガリラヤからでした。町々を巡り歩いて為された教えと業に人々は驚きました。その言葉には権威があり、多くの病人は癒され、自己を回復しました。13章は語られた天の国のたとえをまとめて記した後、郷里へ行かれた時のことを語ってガリラヤ伝道に一つの段落を示しています。

◇見出しの通り、郷里の人々は主を受け入れず、此処でのお働きは大きく制限されざるを得ませんでした。「この人はこのような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。彼は大工の息子ではないか。母親も兄弟たちも皆我々と一緒に住んでいるではないか」と。同族意識、仲間意識の難しさはよいものではあっても、「信仰」に関しては私たちも家族伝道や信仰継承の大きな課題を抱えています。彼の事なら何でも知っていると言ってイエスを自分たちの仲間としてしか見ず、その言葉を聴こうとしない頑なさに気づきましょう。知識の量ではない。信仰は「霊」の問題です。

◇「どこから~得たのか」。本文は「どこから」の一語です。技術習得の師や場所ではなく、イエスご自身を「天からか、人からか」と問う言葉です。そして信仰は、彼を「天からの方」として受け入れるのです。

◇クリスマスを待つ頃、一度は読むヨハネ福音書の初めの部分に「真の光として彼は自分の民の所に来たのに民は彼を受け入れなかった」とあります(1:9~11)。ナザレ人の不信仰とは、世の、私たちの、今日の問題にほかなりません。信仰生活上の危険は「慣れ」です。ゆえに、日々御言葉によって主イエスと新しく出会い、この「神から来られた方」より命の糧をいただかねば生きてゆけない自分を、御前に確認するのです。

◇「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」と主は言われました。キリストに従うゆえに貧しくなっている人、神様のほかに頼るものがない人の幸いです。このような人こそ再臨の主を待ち望み、「御国を来たらせたまえ」と日々の祈りを熱くするでしょう。

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