礼拝説教


2012/10/14 (神学校日・伝道建献身者奨励日礼拝)

「キリスト我が内に生くる」

詩編119:25~32
ガラテヤ書2:19~21

東京神学大学教授 朴 憲郁先生


◇「時は金なり」という格言が世界で蔓延しているが、さらにいえば現代は「情報は金なり」である。溢れる情報に対し、人の心は茫漠とし、情報とは逆に心が飢え渇いている。この現代的な飢え渇きの中で、私たちは礼拝に集っている。「御言葉によっていのちを得させてください」(119:25)という詩編の確信に私たちは依っている。

◇「塵」(25節)とは、創世記3章の「土」と同じ意味。本来虚しいものに過ぎない人間の体に神の息吹が宿ることによって、人は生きるものとなるが、神の命令に背く中で、人間は単なる「塵」に帰ってしまう。私も昼寝をすることがあるが、昼寝の後のぼやけたような意識は、目覚めていないことによって神から遠ざかる力を象徴しているのではないか。しかし私達は今や神の霊の息吹によって、神の御言葉によって目覚めさせられる。

◇主イエスは神の国の到来の光の中で、詩編を解釈し律法による救いを超える十字架の御言葉を示された。その真理を与える福音がガラテヤ書。神の言葉を学んで教訓とするだけではなく福音によって神の霊が注がれ、神が信仰者の中において生きる。「キリスト我が内に生くる」ということである。それは律法主義から解放し人間の生き方を転換させる。律法主義は現代で言えば業績主義と言えるが律法主義は人を生かすことにならない。

◇かつて、律法のエリートであったパウロが、キリストによって転換させられた。パウロは、イエスの死が律法違反の死でなく、「私」の身代わりのために、呪われて死んでくださったと受け止めた。パウロの律法主義、業績主義は、主イエスの十字架によって滅ぼされた。私たちの救いは、心の内面だけの問題ではない。「肉にあって生きる」(20節)中に救いがある。現実の厳しさの中でこそ、その神の愛の生き方に生きられる。それは、今流行りの「霊性」を超越する力である。 >
(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com