礼拝説教


2012/10/7 (世界聖餐日・世界宣教の日礼拝)

「ラザロの復活」

ヨハネ福音書11:28~44

牧師 大村 栄


◇マルタとマリアの弟ラザロが重病だとの連絡があったが、主イエスは「6:なお二日間同じ所に滞在された」ため、ラザロは死んでしまった。しかし主はその時に、「15:さあ、彼のところへ行こう」と言う。死で終わりではなく、死から始まるのがキリストの業である。

◇17~27節、ベタニアで。「21:主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と嘆くマルタに、イエスは「23:あなたの兄弟は復活する」と言う。マルタは「24:終わりの日の復活の時に復活することは存じております」。終末や来世を信じる一般的な信仰だ。だが主イエスの言われる復活は未来の出来事ではない。「25:わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。イエスを信じる者は、その十字架と復活によって、肉体の死を越えた新しい命を生きる者とされる。

◇妹のマリアや村人たちが泣いているのを見て、主イエスは「33:心に憤りを覚え」「35:涙を流された」。人々はそれを見て、「37:盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と、主イエスの無力さと、死の抗しがたい厳しさを嘆く。彼らは「~できなかった」と過去形で嘆いたが、主イエスは「25:わたしは復活であり、命である」と現在形で語られる。この方と共にあるなら、いつでも、「わたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」のだ。

◇一方、「24:終わりの日の復活」は信じるというマルタは、遠い将来のことしか見ていない。私たちも「使徒信条」で「身体のよみがへり、永遠の生命を信ず」と告白しつつ、それは遠い未来のことと決めつけている。主イエスが「心に憤りを覚え」「涙を流された」のは、そういう私たちの無理解に対してだったのだ。

◇東日本大震災後に「神を信じられなくなった」という声が聞かれた。「永遠の生命」は信じていても、現実の死の力に圧倒されてしまった。そして震災は過去の出来事だと諦めたり、放射能問題の解決は将来に期待するしかないと、現在(実)から逃避しようとする私たちに、「今ここで」実現する神の力を実証するために、主イエスは「43:ラザロ、出て来なさい」と叫ばれたのである。

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