礼拝説教


2012/7/29 〈聖霊降臨節第10主日礼拝)

「明日世の終わりが来ようとも」

ミカ書4:1~8,マルコ13:14~27

阿佐谷東教会牧師 坂下 道朗


◇「旧約続編」のマカバイ記という書物では、シリアの王がエルサレムの神殿にゼウス像を置いたことを「憎むべき破壊者を建てた」と表現している。または紀元40年頃、ローマ皇帝カリグラは自分の像を神殿に建てようとしたことがあった。福音書の読者たちは「憎むべき破壊者」という言葉を耳にしたとき、おそらくそのような「神ならざる者を神の場に置く」出来事を思い起こしただろう。神ならざる者が神の座に立ち、それを拝むような時が来るのである。

◇14節は、そのような出来事を念頭に置いて語られ、読まれた言葉である。来るべき世の終わりには、かつて起きたような出来事が起こるという。神が拝まれる場所に神ならざる者が立ち、それらが神として拝まれるのは恐ろしい。しかし主イエスは、その時が来た時、罪と戦えとは言わず、「山に逃げなさい」とおっしゃる。

世の終わりを強調する人たちがいる。皆熱狂的になる。福音書の時代がそうだった。主イエスが再びやって来られて、この世を審き、世の終わりをもたらすと信じ、その時を待っていた。ところが10年経っても、20年経ってもやってこない。「終末の遅延」が問題になった。人々は浮き足立ち、仕事も、日常生活も手に着かない人がいた。テサロニケ教会宛の第一手紙にもある。「わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。」(4章11節)

◇そういう事態に対して第三イザヤ(前6世紀後半)は「18:わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして…創造する」(65:18、礼拝招詞)と語る。それは「第二の出エジプト」では救済されなかったイスラエルに、更なる原点に立ち返る「新しい天地創造」をもって臨むとの神のメッセージである。

◇天地創造は何ものも素材とせず、ただ神の意志と言葉によって造られた。無から有を生じさせるそのみわざが、神の歴史の中で、現在も未来も繰り返される。「19:見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか」。この夏も、神の新しい歴史に身を置いて生きる喜びと、同時に使命をご一緒に味わってまいりたい。

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