礼拝説教


2012/7/15 〈聖霊降臨節第8主日礼拝 〉

「聞け、生きるための声を」

ヨハネ福音書5:19~36

副牧師 五十嵐 成見 


◇主イエスは「はっきり言っておく。」(19節)と言われた。原語では「アーメン、アーメン」、真実を宣言する際に語られる。その神の真実の声を私達は今礼拝で聞いている。「父は子を愛して」(20節)愛は人格的なもの。本当の神は愛によってのみ知られる。愛がなければ人間は死んでいるも同然である。愛が冷え切って凍ってしまっているところにおいて、人間は人間らしく生きていくことができない。しかし凍りきった愛の心を溶かすための声が生まれた。それがキリストの声である。

◇24節では現在形で永遠のいのちが語られる。死後のいのちではなく、主イエスの御声を聞き信じる者は既に永遠の命に与っている。永遠のいのちはヨハネ福音書の鍵言葉。「裁き」と関連付けられる。「人々は…光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている。」(3:17)光よりも闇を好む心が裁きになっている。神の御心を見ることをせず、光の心よりも闇の心を愛してしまう。それが裁きである。しかし、主イエスのみ声を聞いて信じる者は、神から離れること(裁き)から既に免れている。失われたものとしてではなく神に見出されたものとして生きる。そのための声を、私たちは聞こう。

◇「神に聞くすべを知っているなら、神のみ声を聴こう…だけどわたしたちの信仰はよわく…生活はあまりにもわずらわしいので神のみことばに心を開こうとしない」(クオスト)。常に語りかけておられる神のみ声がある。私達が聞こうと思えばいつでも神の声に耳を傾けることができる。それほどに神の声は、この世界の中に闇を貫く光として存在している。しかし、そのみ声を聞こうとしない私たちの心の弱さや、心の頑なさも気づく。自分の生活の声にばかり耳を奪われる。しかしそこでこそ「神のみ声を聞こう」。その声は、どのようにして聞けるのか。それは、イエス・キリストの御名を呼ぶことだ。「わからない時には 耶蘇の名を呼ぶ」(八木重吉)時、聞く声が響き始める。

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