礼拝説教


2012/5/12 〈復活節第6主日礼拝 〉

「イエスはすでに勝っている」

ヨハネ福音書16:25~33

牧師 大村  栄


◇今日は「母の日」。私の父は明治生まれで、厳格な人だった。しばしば父に叱られそうになった時に母がとりなしてくれた。父と子の間を取りもつ母は、神と人との閒の仲保者キリストの立場を連想させる。父なる神は罪人の悔い改めを待っているが、母なるキリストは私たちのすぐそばまで来て下さり、私たちを神への信仰に立ち返らせようとする。このキリストの招きに応えて神に帰るのが信仰の出発である。

◇「28:わたしは父のもとから出て、世に来たが、今世を去って、父のもとに行く」と言われた主イエスの<下降と上昇>を心に受け入れる時に、ひとり子を賜うほどに世を愛された神の愛を信じる信仰が与えられる。

◇古井戸に落ちて傷ついた旅人に、説教だけして行ってしまう第一の男。「これが運命、あきらめろ」と言って去る第二の男。一本の綱を落としただけで行ってしまう第三の男。そして自ら古井戸に降り、泥まみれになって肩にかついで穴から這い上がる第四の男。この第四の男、すなわち主イエス・キリストの<下降と上昇>に、私たちの救いがある。しかも主イエスは十字架の翌日「陰府降下の土曜日」に「陰府に降り」、死の闇の底にも光を届けて下さった。

◇しかしそれらを知的に理解するだけでは信仰とは言えない。初めは信じた弟子たちも、受難のイエスを見捨てて逃げ去った。彼らはペンテコステに聖霊が注がれて、初めて確信を持って語りだした。知的な理解や、人間的決断を超えた信仰が、聖霊によって与えられるのである。

◇聖霊は「弁護者」パラクレートスとも呼ばれる(14:16)。父と子の間を執り成し、和らげてくれる母の存在に似ている。私たちの教会はそういう執り成しの役割を持つ「母なる教会」でありたい。その原動力は、下降して十字架に血を流され、しかしそこから上昇して栄光に入れられた主イエスの勝利にある。「33:あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。

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