礼拝説教


2012/5/5 〈復活節第5主日礼拝 〉

「生きるとは」

船本 弘毅 先生

フィリピ書1:21~26


◇パウロが偉大な伝道者であったことに、異論 をはさむ人はいないであろう。しかし使徒としての彼の地上の歩みは苦難に満ちていた(2コリント10:10以下,12:7など参照)。しかも彼が捕われると、その機会を利用して不純な動機から動きまわる者もいたようである(フィリピ1:17)。人の不幸につけこんで自分の勢力を伸ばそうとしたり、人を貶めてでも自分を売り出そうとする人は、パウロの時代も今も、変らずにいる。

◇そのような状況の中で、今日の聖句は語られた。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」。これは単なる美しい文学的表現ではなく、使徒としての真実な信仰告白である。彼の願いと希望は、自分の体を通してキリストの栄光があらわされることであった。

◇パウロは率直に、捕われの身になった自分にはこの世を去ってキリストと共にいることが願わしいと語りつつ、しかし肉に留まることがあなたがたに必要だと確信する故に、共にいるとフィリピの教会員に語りかけているのである。

◇私たちは今、3.11の後の時代を生きている。第2の敗戦の時代だと言う人もいる。東日本大震災1周年追悼式で遺族代表で言葉を述べた奥田さんは、両親と二人の子どもを津波で失った主婦であった。「戻れるなら1年前に戻りたい」という言葉を最後に語りたいと心に決めていたが、何度も文章を書き直す内に「悲しみを抱いて、これからを生きていく」と代え、多くの人の心を打った。トマス・ア・ケンピスは「人は誰しもキリストと共に喜ぶことを求めるが、彼のために真に耐え忍ぼうと志す者は少ない」(『キリストに倣いて』)と語っている。

◇パウロは「生きること」と「死ぬこと」のはざまに立って、生きることがキリストのみ心にそうことであると確信し、「生きることはキリストである」と告白した。「あなたにとって、生きるとは」、今朝、わたしたちはこの問いの前に立たされている。

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