礼拝説教


2012/4/29 〈復活節第4主日礼拝 〉

「わたしを愛するか」

牧師 大村  栄

ヨハネ福音書21:15~25


◇復活の主イエスがペトロに「15:わたしを愛しているか」と三度問うたのは、彼が逮捕された主を三度「知らない」と言ったからだ。

◇主イエスの問い「愛するか」には、ギリシア語「アガペー」が使われている。それはどんな時にも変わらず愛し続ける神の愛を示す言葉。しかしペトロは主を見捨て、愛し続けることができなかったから、「アガペーします」とは言えず、「フィリアしかできません。それはあなたがご存じです」と答えた。「フィリア」は愛に理由を必要とする、相対的な愛である。

◇ところがそれが二度繰り返された後、三度目には主イエスも「アガペーするか?」でなく、「フィリアするか?」と言い換えている。神の絶対的な愛を実行できない弱きペトロに、主イエスは自ら低くなって、彼の人間的限界をゆるし、受け入れて下さった。そして弱きペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と言われる。それは教会を託す言葉である。牧師室の壁に平岩愃保先生の書「牧我羊(我が羊を牧せ)」がある。主は私たちに教会を託し、教会を通して世界の人々の「魂を養いなさい」と命じられる。

◇主はペトロの死を予告した。事実彼は皇帝ネロの迫害により、62年に殉教したと言われている。だが主は彼の破滅を予告したのではなく、「19:ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示」したのだ。主を愛し、主の委託に応えて奉仕の勤めを担いつつ、「19:わたしに従いなさい」と言われるキリストに従うなら、その生き方は、死に方においてさえ、「神の栄光を現す」ものとなる。人間的評価を目指すのではなく、神に生かされ、用いられ、神に捧げて送る生涯は、地上の何ものにも束縛されない、最も自由で豊かな人生なのである。

◇ペトロは他の弟子を指して、「21:この人はどうなるのでしょうか」と聞いてみた。すると主は、「22:あなたに何の関係があるか」と拒絶された。人と比較して生き方を考えず、ただ神があなたに示される道を歩みなさいと言われる。

◇「わたしを愛するか」と問われ、これに精一杯応答しつつ、「わたしに従いなさい」との招きに応えて、生涯を捧げて生きる者でありたい。
(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com