礼拝説教


2012/4/22 〈復活節第3主日礼拝 〉

「生き生きとした希望」

牧師 大村  栄

Iペトロ書1:3~9


◇「7:あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」。金は精錬の過程で高熱の精錬によって純化される。それは信仰の生涯における試練のことを指す。信仰は苦難や誘惑の火で焼かれて鍛錬され、純粋なものにされていく。

◇讃美歌21の470番「やさしい目が」(小山章三兄作曲)の作詞者深沢秋子さんによると、その2節「大きな手が、あたたかい手が、きょうもわたしを支えてくださる」が、原詞では「きょうもわたしを握ってくださる」だったそうだ。神様に「支えられる」だけではなく、ぎゅっと強く握られる手の痛みが「火で精錬され」る体験なのだ。それによって信仰が成長させられる。

◇「8:あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。復活の主イエスが弟子たちに現れた時、その場にいなかったトマスが、「あの方の手に釘の跡を見…なければ、わたしは決して信じない」(ヨハネ20:25)と言った。その8日後に主イエスは再び現れ、トマスに「わたしの手を見なさい」と言われ、さらに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(同20:29)と言われた。私たちも「信じない者ではなく、信じる者」(同20:27)になり、「喜びに満ちあふれ」たい。

◇それは、信じることの苦手な私たちを、まず主が信じて下さっていることを知って可能となる。「やさしい目が」の3節は「かぎりのないひろい心が、きょうもわたしを守って下さる」だが、ここも深沢秋子さんの原詞は、「かぎりのないひろい心」ではなく、「くもりのない ひろい心」だったそうだ。不信や疑いの目で見るのではなく、曇りのない広い心で私を見つめ、私を信じてくださる。そして、「わたしがあなたを信じるから、あなたも信じる者になりなさい」と招いてくださる。

◇そこに「3:新たに生まれさせ…、生き生きとした希望を与え」て下さる神の憐れみがある。

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