礼拝説教


2012/2/26 〈受難節第1主日礼拝〉

「誘惑する者は誰か」

副牧師 五十嵐成見

マタイ福音書4:1~11


◇悪魔は主イエスに対して「ひれ伏してわたしを拝むなら、これ[全ての国々]をみんな与えよう」(9節)と誘惑する。神の子を支配し、人間を支配したい欲が悪魔であるなら、私達と根はつながっているのではないか。私達は悪魔を非現実的と思うが、パンで生きる生活において自己顕示と支配欲の虜となっているのではないか

◇この記事はマタイの文脈にそえば「神の子としての誘惑」である。1番目と2番目の誘惑は、どちらも悪魔が「もし神の子なら」と問うている。神の子なら、と私たちも問うことがある。手っ取り早い方法で解決し、私たちの要求をすぐに受け入れる神を求め、そうでなければ疑いを覚え、ついに信仰をなくす、という誘惑を受ける。しかしそのような安っぽい救いは真に人の魂を慰めない。

◇ルターが、重い心を抱えたシュパラティン牧師に手紙を書いた。「あなたに命じ、慰め、あなたの試練、すなわち悪魔が与える苦悩を憎み、呪われる方を斥けようとしないでください、…あなたが悲しみのあまり、キリストを砕こうとするような悲しみは、悪魔のしわざです。」私達は悲しみの中で罪を犯すことがある。キリストを砕くという罪、自分の要求にかなわない神を砕いてしまおうとする罪である。ルターはそれを見てとりながら、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われたキリストを説くことによって、再びシュラパティンの心を立ち上がらせた。

◇「もし神の子なら」と問わざるを得ない時に、神は私達を残忍に裁かれる方ではない。しかし私達が弁えることは、「もしあなたが神の子なら」という問いに対して、既に神は勝利しておられることである。主イエスが十字架にかかられたことによって、既にその勝利を私達も受けている。十字架を見つめる時「本当にこの人は、神の子だった」(27:54)と告白することができる。

◇キリストの十字架の苦難は私たちの苦難とつながり担ってくださる、それが慰めである。この苦難を経た慰めこそが、私たちの魂に真に触れ、奥深くに届く救いである。

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