礼拝説教


2012/1/22 <降誕節第5主日>

「喜びに変わる」

牧師 大村  栄

ヨハネ福音書2:1~11


◇カナの婚礼で、祝宴に欠かせないぶどう酒が途中でなくなった。これは喜びに「陰りが差す」事態だ。人生においてもそんな体験をすることがある。愛や喜びが冷めてしまう。体力や健康に衰えを感じ、肉体の限界を直感したりする。そんな時に私たちは母マリアがしたように、「3:ぶどう酒がなくなりました」とイエスに訴えるのである。

◇しかし主は、「4:婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と拒絶する。それでもマリアは召使いたちに「5:この人が何か言いつけたら、その通りにして下さい」と言った。要求を退けられた時に「みこころがなりますように」という祈りをする者へと変えられていくなら、そこに主のみ業が始まる。

◇「6:そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった」。「清め」とは、律法の規定に従って手足や食物などをていねいに洗うこと。実行できる人とできない人とを差別し、出来ない人を切り捨てる。主イエスはそのような躓きの水を喜びの酒に変えられた。

◇宴会の世話役が言った。「10:だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」。信仰の生涯には、終わりに良いものが「取って置かれ」、さらに先に天国が用意されている。終わりほど良いのだ。

◇世話役はこの事態を不思議がったが、「9:水をくんだ召使いたちは知っていた」。彼らは「7:水がめに水をいっぱい入れなさい」というキリストの命令によって厳しい仕事をした。しかしそれを終えたときに、大いなる奇跡が起こったのだ。

◇「4:わたしの時はまだ来ていません」と言われた主が、その時が来たと宣告されるときが来る。12章23節「人の子が栄光を受ける時が来た」。それは受難への道に踏み出す時だった。十字架と復活において喜びは完成した。そしてそれは主イエスの再び来られる時に実現する。「御国を来たらせたまえ」と祈りつつ、それを指し示す主のみ業に「召使い」のように奉仕する教会でありたい。
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