礼拝説教


2012/1/8 <降誕節第3主日>

「この人を見よ」

牧師 大村 栄

ヨハネ福音書1:29~34


◇主イエス・キリストは公生涯の始めに、バプテスマのヨハネから洗礼を受けにヨルダン川に現れた。ヨハネは主を指して「29:見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と叫んだ。「小羊」といえばユダヤ人は、毎年春に祝われる「過越祭」に犠牲として捧げられる小羊を連想した。出エジプトの際に小羊の血を塗ったイスラエル人の家は、災いが「過ぎ越し」て脱出に成功した。その小羊が、主イエスの存在に類似しているとヨハネは言う。

◇私たちはエジプトの支配ではなく、罪の支配に脅かされている。ここから脱出しなくてはならないが、自力では出来ない。そのために出エジプトの時と同様に、身代わりとなる小羊の血が必要だった。それが「世の罪を取り除く神の小羊」なるキリストの十字架の犠牲だったのである。

◇主イエスの公生涯の始めにこの言葉があり、終わり近くにも似た言葉がある。十字架につけられる前に鞭打たれ、血を流す主イエスを指して、ローマ総督ポンテオ・ピラトが群衆に向かって叫んだ、「見よ、この男だ」(19:5)。ラテン語では「エッケ・ホモ」(この人を見よ)。「ホモ」はごく一般的な「人」。ピラトは惨めな姿のイエスを指してユダヤ人に、「お前たちはこんなただの男を、殺したいほどに恐れるのか?」と挑戦的に問うたのだ。

◇それは期せずしてみわざの本質を表している。神はあえて無力な人間の姿をとって、そこに救いのみ業を成就された。讃美歌121「馬槽のなかに」(由木康先生作詞)の3節「この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛はあらわれたる、この人を見よ、この人こそ、人となりたる活ける神なれ」。

◇ヨハネは2度(31,33)「わたしはこの方を知らなかった」と言うが、二人は幼なじみだったから、イエスの本質を知らなかったという意味だ。それに気づいたのは、「32:御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た」からだ。私たちも聖霊の導きによって救い主をしっかりと見出し、心に受け入れたい。そして、キリストを中心とする信仰共同体である教会に連なることを、喜びとし、支えとし、使命としていきたい。

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