礼拝説教


2011/12/4 <待降節第2主日>

「荒野を行く時」

牧師 大村  栄

創世記16:1~16


◇アブラム(後のアブラハム)は故郷を出発する時から、神の祝福を約束されていた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」(創世記12:1-2)。

◇しかしカナン地方に定住してからも、子供が生まれないので悩んだ。妻サライは自分の女奴隷によって子供を得ることを思いつき、ハガルをアブラムに与えた。「アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた」(4節)。サライが自分の立場の変化から、ハガルを妬んだのかも知れない。「サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた」(6節)。

◇側女によって子を得るという、神の祝福を得るために考えついた方法だったが、結果的にはせっかく妊娠した側女を追放せざるを得ず、夫婦仲は悪くなった。事態は以前よりもっと悪くなった。人間の思いはからいの愚かさ、拙さである。

◇6節まで神は一切登場しない。しかし人間の思いと行動が敗れた時、そこに神が登場される。御使いは荒れ野の泉のほとりでハガルと会い、「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」(8節)と問う。自分の歩みに関心を持ち、それを共に担おうとする、そういう相手がある時、人は苦難にも立ち向かって行ける。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」と、一番きついことを命じられても、それに従うことが出来た。

◇マリアが受胎告知を受けて、天使に「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言った時、ガブリエルは「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。…神にできないことは何一つない」と応えた。いと高き方(=神)の力が聖霊である。その聖霊が降る時、人間には不可能なことが可能になる。「神にできないことは何一つない」のだ。

◇聖霊の注ぎを切に求め、それによって荒野にあっても希望を見ることができるよう祈りたい。

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