礼拝説教


2011/10/23 <在天会員記念礼拝>

「いのちの始めと終わり」

牧師 大村 栄 

創世記1:1~5、24~31a


◇今日から教団の教会暦では降誕前、別名契約節に入る。キリストの降誕は、急に思いついたようにクリスマスに実現したのではなく、世の初めから神の救いの計画の中に定められていた。それを心に留める期間が契約節である。

◇旧約聖書の冒頭は「初めに、神は天地を創造された」。そして終わりはヨハネ黙示録の巻末「アーメン、主イエスよ、来てください」。神による創造が歴史の始まりであり、イエス・キリストの到来が中間にあって、最後に再びキリストが来てすべてを裁き、神の支配が完成する。このキリストを中心とした始まりと終わりの間に、私たちの歴史があって、それは逆戻りはせず、繰り返されることもなく進んでいく。

◇そのような神の支配を覚える時、人生と世界の歴史の一つ一つの出来事に、「定められた時」があるのだという信頼が生まれる。コヘレトの手紙3:1-12、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時。植える時、植えたものを抜く時…」。時間を支配し、空間を支配する神への信頼の中で、自分の生きる今を見つめることが出来る。

◇「夕べがあり、朝があった」と繰り返される。通常人間は一日を、朝に始まり夕べに向かうものと感じている。そして人生も同じように、誕生という「朝」から、死という「闇」へと向かうものであると認識している。しかし、私たちの人生は決して死では終わらない。「夕べ」から始まった人生は、その先に「御国の朝」、すなわち永遠の命を生きる未来へと向かっている。人間の時間は朝に始まり、夜に終わっても、人間の時間が終わるところから、神の時間が始まるのだ。

◇そのような希望に向かって、私たちの人生は意味ある一日一日を加えていく。神の意志によって始まった命が、その神の意志によって終わる日まで私たちは生きていく。「たとえ明日この世の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植える」(ルター)。目の前には失望の影がさしていても、未来への信頼をもって生きる者でありたい。

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