礼拝説教


2011/10/9 <神学校日・伝道献身者奨励日礼拝>

「覚悟のかたち」

東京神学大学 教授 神代真砂実先生 

エステル記4:6~16
マルコ福音書14:32~36


◇「このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります」(16節)。元の言葉で見れば、「もし、死ぬのであれば、死にます」という簡潔な言葉でエステルは自分の覚悟を言い表します。ここに、死に対する態度の取り方が示されています。

◇死に直面する上で大切なことの一つは、自らのアイデンティティーの発見・確認です。これまで自分の民族も信仰も隠していたエステルは、このとき、それらをはっきりと意識することになります。死と向かい合うとき、自分が何者であるのか、自分を根底で支えているものは何なのかが問われます。

◇次に、死に対する態度を決めるのは、生き方を決めること、ということも大切です。エステルは単に「まな板の上の鯉」になったのではなく、むしろ自分の属する民族のために、王に執り成しをするという使命を受け取っています。死に向かい合うことは、積極的な生き方、生の目的の発見へとつながるのです。この意味で、死と生はつながっているわけです。

◇ここから、私達の通常の死についての考え方は狭過ぎるということがわかってきます。生から切り離され、生を否定するに過ぎない死ばかりを私達は考え、死を拒否します。しかし、それによって、実は私達は生をも見失っているのではないでしょうか。

◇エステルも初めは同じでしたが、モルデカイとの対話を通して、生と死の結びつきに気づかされていきます。その時の決定的な一言は、14節後半の言葉、より適切な訳によれば、「あなたがこの国の王妃にまであげられたのは、このような時のためだったかもしれません」。この含みのある言い回しに導かれ、エステルは自分の生涯を振り返り、今日に至るまでの一切が神様の導きの下にあったことを確認し、自分の人生の主役・主人が自分ではなく、神様であったことに気づくようになるのです。そのとき、エステルは自分の生も死も、神様から受け取ることを決心します。「もし、死ぬのであれば、死にます」は「もし生きるのであれば、生きます」でもあります。それはちょうどゲツセマネで祈りつつ、主イエスがなされた決心に重なるものであったのでした。

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