礼拝説教


2011/9/25 <聖霊降臨節第16主日>

「背中が十字架を語る」

副牧師 五十嵐 成見

ルカ福音書14:25~35


◇「力を捨てよ、知れ。わたしは神。」(詩編46:11、9.11追悼式でのオバマ大統領の引用)神の知恵である。神に人間はその力を捨て、跪く。力の圧倒的な勢いを前にして、全ての人間がなすべきことは神の御前に人間の力を捨てることである。

◇「父、母、妻…さらに自分のいのちであろうとも、これを憎まないなら私の弟子ではありえない」人間的な力に頼むべきことを捨てることが語られる。 「憎む」とは「愛する」の対立概念。神を愛することが人間より先に来る順序を示す。

◇ローマでの旅行の際、ティトゥスの凱旋門とコロッセオを見た。前者はルカ福音書に暗示されたユダヤ戦争の勝利の記念のために建造、後者はキリスト者の迫害の舞台となった。自分の命を捨ててキリストの命を生きた人々がいる。迫害は遠い過去の世界のことではない。今日も自らを神に献げ信仰を守る世界のキリスト者がいる。日本もキリスト教伝播から太平洋戦争に至るまで厳しい迫害の嵐を経験した信仰者がいる。そのことを忘れることはできない。

◇洗礼を受けるとは「イエスの死を体にまとう」(Ⅱコリント4:10)こと。主イエスの十字架の死を身に帯びる。すなわち、自分の命を何よりもキリストの愛のために献げることであり、全ての洗礼に起こされている真実の決断である。

◇主イエスはすぐに譬え話をされる。塔を作る話、戦争の話である。後者の話は負けがわかる中「和を求める」(32節)ことが語られる。滅びるのではなく生きるためである。「本当の宗教は人間に死ねとは言わない。人間に、生きろという」(三浦綾子)

◇主イエスの服従の言葉は、人間関係を形作り再生する神の知恵である。身近な関係の中で葛藤が起こる。親子、夫妻、兄弟姉妹間で互いの愛情が信じられなくなる。その時何を基にして生きあっていけるのか。なにより神を愛することだ。神を愛するからこそ、私達の間を執り成し「和を求める」ことをしてくださるのを信じて生きられる。不信・不安の中でこそ、神を愛することに集中し、神の愛の生き方に自分をささげる。神への服従は私達のこころを育て上げていく。

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