礼拝説教


2011/9/4 <振起日礼拝>

「災害の中に見るべきもの」

牧師 大村  栄

ルカ福音書13:1~9


◇「1:ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」とは、ローマ軍への抵抗運動をはかったガリラヤ人が、礼拝の場で処刑されたことを指す。それを聞いて主イエスは、「2:そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。3:決してそうではない」と言われた。

◇続いて主は「4:シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。5:決してそうではない」と言われた。シロアムの塔が倒壊して死者が出たらしい。その犠牲者が特別に罪深かったのではない。東日本大震災で被災した方々が特別に罪深かったのではない。これは決して一部の者への制裁ではなく、神を忘れた人類全体への警告である。

◇上の言葉のあとに続けて2度言われたのは、「3:あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。私たちの誰もが同じ苦難を受ける可能性はある。私たちが今信仰的に見るべきことを、後半「実のならないいちじくの木」のたとえに示される。

◇何年も実をつけないいちじくの木を切ってしまえと命じる主人に、園丁は「8:御主人様、今年もこのままにしておいてください」と必死にとりなす。この園丁はイエス・キリストである。「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」(ヨハネ15:2)。その父の前で、つなぎ手である主イエスがと取りなして下さるから私たちは充分「実を結ばない」のに「取り除かれる」のを免れている。災害は私たちにそのことを思い出させるための警告なのではないか。

◇災難を「天罰だ」とは決して言わないが、だったらどんな罪を犯しても罰せられない、と言う訳でもない。神はあくまで正義の神であり、不義は憎み退けられる。罪と罰の論理は厳然と存在する。しかし農園の園丁のように、必死に取りなして下さる主イエスがおられ、この方が「罪と罰の論理」を担って十字架について下さった。その代理の死によってこの論理は撤廃され、私たちに「赦される希望」が与えられた。主イエスの十字架の贖いによって、かろうじて、我々は今あるを得ているのである。
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