礼拝説教


2011/6/19 <三位一体主日礼拝>

       「喜びにあふれて」

牧師 大村 栄

ルカ福音書10:17~24


「喜びにあふれて」 ◇主イエスの弟子たち72人が伝道に遣わされ、帰ってきて誇らしげに主イエスに報告する場面。「17:七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します』」。主はそれを評価するが同時に、「20:しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と注意する。弟子たちが本当に喜ぶべきことは、自分がどんな立派なことをしたかではなく、神が彼らを用いて、神ご自身の偉大な業を実行されたということだ。

◇「名が天に書き記されている」とは、永遠の命に連なる者とされること。「生きている時も、死ぬ時も、わたし自身のものではなく、わたしの真実なる救い主キリストのものであること」(ハイデルベルク信仰問答)。それが唯一最大の慰めであり喜びである。

◇またそれは大きな継続性の中に身を置くことである。アハブ王との戦いに疲れ、孤立無援で悩むエリヤに神は、「わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」(列王記下19:18)と励ますが、同時に、「エリシャに油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ」(同19:16)と、後継者に後を託して退けとも言われる。天に名を記されるとは、そのように、永遠という大きな連なりの中で、自分の担うべきパートを示されること。それを知ることは、人間にとっての大きな平安と喜びである。

◇そのような喜びは、神とキリストの深い愛の関係の中にその根拠を持つ。聖霊降臨日の翌週である今日は、教会暦で「三位一体主日」。父なる神、子なるキリスト、そして聖霊の三者が一体であるとの信仰を深くする日。そして私たちがその三位一体の豊かさの中に「22:子が示そうと思う者」として身を置く者とされていることを喜ぶ日である。

◇「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。この選びは、子なるキリストの木に枝としてつながることであり、父なるの愛に留まることであり、それによって豊かな実を結ぶ者とされることなのである。

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