礼拝説教


2011/6/5 <特別伝道礼拝>

       「明日のことは分からない中で」

山北 宣久 先生(特別伝道礼拝)

ヤコブの手紙4:13~17


◇パスカルは「人間は、幸福になるために、これら(死)のことを考えないようにした」と言った。人間は気晴らしや仕事に熱中することによって、死を忘れようとする。しかし主イエスが人間の死の人生の終着駅を、永遠のいのちの始発駅としてのターミナルに変えて下さる。主イエスは十字架上で死の惨めさと苦しみとを十分に知り尽くされた。しかし日曜日に復活によって死に勝利された。だから毎日曜日、私達はイースター礼拝を迎えているともいえる。だから私達は死を恐れる必要がない。

◇ヤコブの手紙には「商売をして金もうけをしよう」(13節)という人たちが描かれている。金もうけが否定されているわけではない。しかし商売をしながら、いつの間にか「明日のことは分からない」「やがて消えて行く霧にすぎない」(14節)命を神のようにし、自己中心、傲慢に振舞うことを罪として指摘する。16節の「誇り高ぶっている」は、「放浪癖のあるやぶ医者」という意味である。安心ではないのに大丈夫、と判断したり、できないことをできるといったりする傲慢である。

◇何が私達に求められているのか。「主の御心であれば生き永らえてあのことやこのことをしよう」(15節)。神は生と死において私達と共にある。それを主イエスは十字架と復活によって裏付けしてくださった。だから私達は「今」を生きていくことができる。私達は神が共にいるから「人がなすべき善を知り」(17節)、ベストを尽くすことができる。

◇手紙の最後にDV(デオ・ボレンテ、御心のままに)と書く習慣がある。神の御心がなるとは、愛が勝利するということである。私達の人生は愛が勝利する人生でなければならない。生きることも死ぬことも偶然ではなく、神の愛の必然の中に、主イエスの十字架と復活において保証されている。「人事を尽くして天命を待つ」と言うが、愛の勝利としての天命が定まっているからこそ、安心して人事を尽くす事が出来るのだ。御心の勝利を信じ、その日を与えられていることを感謝し、「私」から「私達」へと射程距離を伸ばしながら、「あのことやこのことをしよう」(15節)を創造的になしていきたい。

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