礼拝説教


2011/5//1 <復活節第2主日>

       「エマオへの道-限界の先へ」

牧師 大村  栄

ルカ福音書24:13~35


◇エマオの村へ向かって歩く二人の弟子たちは、主イエスの死がいかに大きな失望であったかを語る。「21:しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります」。もう死は確実である。しかし主イエスがラザロを生き返らせたのも、彼の死から四日後のことだった。主はラザロの死が人々の心を絶望させているのを見て「心に憤りを覚え」(ヨハネ11:38)た。その絶望はエマオヘの道を行く弟子たちの心をも支配しており、ここでもイエスは「25:ああ、物分かりが悪い者たち」と憤られた。

◇「死も、命も、…他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:38-39)。絶望が私たちを捕えて滅びへと進ませる時、主イエスは激しく憤られる。

◇エマオは彼らにとって、限界に直面して逃げ帰る場所だった。しかし「28:イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった」。弟子たちはまだ主とは知らずに引き留めて「29:一緒にお泊まりください」と願った。「主よ、共に宿りませ」(讃美歌39)。

◇夕食の席で「30:イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」。この仕草から、彼らはあの5000人の人々にわずかのパンを分け与えて満腹にさせた主を思い出したかも知れない。もう限界だと失望する私たちに、主イエスは現実の壁を越えて、復活の希望を与えて下さる。第二次大戦中のドイツの防空壕の壁に書かれていた詩。「私は太陽を信じる。たとえそれが見えない時も。私は愛を信じる。たとえそれが感じられない時も。私は神を信じる。たとえ彼が沈黙しておられても」。

◇エマオでの出来事は、復活の主との出会いを通して、人間の限界の先に神の愛の勝利を確信する体験だった。私たちは復活を記念する日曜日ごとに、その体験へと帰ってくる。そして弟子たちがここからエルサレムに引き返していったように、「エマオへの道」は、ここから「エマオからの道」となる。その道に復活の主が共にいて下さる。「どこまでも主に信頼せよ。主こそはとこしえの岩」(イザヤ26:4)と信じて従ってまいりたい。

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