礼拝説教


2011/3/13 <受難節第1主日礼拝>

       「荒野の誘惑」

牧師 大村  栄

ルカ福音書4:1~13


◇受難節第1主日にあたり、本日の礼拝は、先週11日(金)東日本大震災によって命を失った方々への哀悼の祈りをもって、また家族や家を失うなどして悲しみの中にある人々、痛みの中にある人々に主の慰めと癒しを祈りつつ捧げる礼拝とする。

◇主は荒野で40日間サタンによる三つの誘惑を受けられた。第一の誘惑は激しい空腹の中で「3:神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」という人間の本能的欲望への誘惑。第二は「6:この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう」という野心や支配欲への誘惑。第三は「9:神の子ならここから飛び降りたらどうだ」という安全への誘惑であった。

◇本能・野心・安全という三つの激しい誘惑に対して、主はいずれも旧約聖書の言葉で応えている。第一の誘惑に対しては、「人はパンだけで生きるものではない」(申命記8:3)。第二の野心への誘惑に対しては、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(申命記6:13)。第三の安全の誘惑に対しては、「あなたの神である主を試してはならない」(申命記6:16)。いずれも神の言葉によって対抗した。

◇これらは出エジプトの荒野の旅で、民の不信仰をただすために語られた言葉だ。しかしそれが語られた当時、「人はパンだけで生きるものではない」と言いつつ「マナ」という食物が与えられ、「主を試してはならない」と言いつつ、乾きのあまりに神を疑う民のためにはホレブの岩から水がほとばしり出た。私たちも信仰の戦いにおいて少々不充分でも、神はその求めに応えて下さるのかも知れない。

◇だが主イエスの荒野の戦いにおいては、神は何のしるしも現されなかった。しかし実はここに、何よりも力強いキリストの勝利がある。それはどんな奇跡にも優る、神の言葉によって生きるという確信による勝利だ。キリストは神ご自身によって荒れ野を引き回され(1節)、私たちと同様、肉の弱さを担うものとして誘惑と戦い、しかし「神の言葉によって生かされる」という信仰の確信を持って伝道の生涯に歩み出された。主の十字架への道のりをたどる受難節の今、私たちもこの主イエスが確立された神の言葉への確信に立つものでありたい。どんな時も。

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