礼拝説教


2011/3/6 <降誕節第11主日礼拝>

       「弱いときにこそ強い」

牧師 大村  栄

イザヤ書41:8~16


◇イザヤ書40~55章の「第2イザヤ」と呼ばれる部分は、紀元前6世紀バビロン捕囚の最中に語られた神の言葉。詩編137編に「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた」との嘆きの歌がある。そんな苦汁をなめている民に向かって、神は「8:わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ」と呼びかける。国と民族と宗教を失い、アイデンティティーを失っていた民に、主なる神は語りかける。「9:あなたはわたしの僕。わたしはあなたを選び、決して見捨てない」。

◇しかしそれは、イスラエルを強くするためではなかった。「8:わたしの僕イスラエルよ」の「僕」とは奴隷のこと。神はこの小さく弱くされた民に、「恐れることはない」と語るのである。

◇しかし民には別の思いがある。詩編137の嘆きの歌は、復讐を誓う言葉で終わっている。「娘バビロンよ、破壊者よ。いかに幸いなことか、お前がわたしたちにした仕打ちを、お前に仕返す者。お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は」(詩編137:8-9)。激しい怒りや憎悪があり、いつの日かバビロンに仕返しする日を熱望している。しかしそこには救いはない。神は「僕」とされた民を、そのままで「わたしの」民と呼ばれたのだ。「14:恐れるな、虫けらのようなヤコブよ」とも言われている。

◇「わたしは弱いときにこそ強いからです」(・コリント12:10)。信仰による救いとは、弱さを紛らわしたり忘れさせたりすることではなく、現実の弱さのただ中に立って、そこに注がれる神の恵みを受け止めることである。「キリスト者の完全」(ジョン・ウェスレー)とは人間が完全になることではなく、すべてを放棄して、神に委ねきることなのだ。

◇「へりくだって、死に至るまで」(フィリピ2:8)神に従順であったキリストにならって生きる人生の最期に、私たちは真のふるさとである天国へ帰る。そこへの行く手を阻む山や丘は切り崩される。「15:あなたは山々を踏み砕き、丘をもみ殻とする」。そのことを可能にする「弱い時にこそ強い」と言いうる力を得て、神の僕として生きる者でありたい。

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