礼拝説教


2011/2/27 <降誕節第10主日礼拝>

       「金銀はないけれど」

牧師 大村  栄

使徒言行録3:1~10


◇「2:美しい門」から神殿に入る金持ちを目当てに群がる物乞いが大勢いた。「2:生れながら足の不自由な男」もそんな一人だった。「4:ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見た」。男も「5:何かもらえると思って二人を見つめた」。両者の視線は全く異なる。一方は相手が自分にとって利益になるかどうかという限られた部分だけで見る視線。他方はそうではなく、その人の全部を見つめる視線だった。「人を憎むとは、その人の一部しか見ていないこと。人を愛するとは、その人の全体を見ることです」(バレンタイン・デ・スーザ)。それは主イエスにならう姿勢だった。「ああ、主のひとみ、まなざしよ」(讃美歌243)。

◇ペトロとヨハネは主イエスにならって「じっと見る」ことによってこの男の抱える問題の本質を知って言う、「6:わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう」。すると彼は「7:足やくるぶしがしっかりして、8:躍り上がって立ち、歩きだした」。さらに「8:神を賛美し、二人と一緒に境内に入っていった」。これは彼が癒されて礼拝者に変えられたことを意味する。そしてそれが、ここに起こった愛のまなざしによる奇跡の大事な意味である。

◇バビロン捕囚から帰還した民に対するネヘミヤの言葉、「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ記8:10)。

◇エズラが読む律法(神の言葉)に聞き、レビ人による解き明かし(説教)も聞き、主を喜び祝う心が与えられた。これこそが礼拝で与えられる「力の源」だ。それは閉鎖的な喜びではない。礼拝は人々を喜びを共にする群れへと招集し、食事を「備えのない者には分け与えてやりなさい」と言われるように、助け合い、分かち合って生きる者として派遣する。

◇「美しい門」で物乞いをしていた男は、使徒たちのまなざしによって、そういう礼拝に身を置く者へと変えられた。そのまなざしを私たちも継承する者でありたい。そしてこの男に起こったような愛の奇跡を伝えていく教会でありたい。

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