礼拝説教


2011/1/23 <降誕節第5主日>

       「解放を告げ知らせる福音」

牧師 大村  栄

ルカ福音書4:16~30


◇ある日会堂で主イエスはイザヤ書の言葉 (61:1-2)を読んだ。「18:主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、19:主の恵みの年を告げるためである」。

◇主なる神に「18:油を注がれた」者(メシア=キリスト)が民族の解放のために来て下さるのを、イスラエルは待ち望んでいた。読み終えた後、イエスは言われた「21:この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。つまり、私こそメシア・キリストであると宣言されたのだ。

◇キリストが遣わされたのは、「19:主の恵みの年を告げるため」。これはレビ記25:10にある50年に一度の「ヨベルの年」。その年は「おのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る」。すべては本来神のもの。それ以外のものに支配させてはならない。その究極は地上の支配者からの解放ではなく、それ以上に大切な、罪からの解放である。

◇「罪」とは神との関係の乱れ。人間が勝手にそれを乱したにもかかわらず、神は人間にその償いを求めず、自ら独り子イエスを犠牲に差しだすことによって赦すと決断された。さらにそれは死の恐れからも私たちを解放する。ホテルの支払いはもう済んでいる。私たちは安心して最期までここに宿泊すれば良い。最後の清算はもう終わっている。それがキリストの十字架によって実現した罪の赦しである。

◇「死/それよりも怖ろしいものがある/死に切れぬ不信だ これ以上の怖れがあろうか/死ぬるまでに/死をよろこび迎えるだけの信仰が出来ぬこと/これにました怖れがあろうか」(八木重吉)。

◇この福音のメッセージを聞いたナザレの人々は、驚きと共に「22:この人はヨセフの子ではないか」と言って、キリストを自分たちの独占物のように考えた。キリストを自分の手の内に確保するのではなく、私がキリストの手に捉えられる者でありたい。それが本当に神による解放の恵みにあずかり、罪と死との法則から解放された者の喜びだろう。
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