礼拝説教


2011/1/9 <降誕節第3主日>

       「神の心に適う者」

牧師 大村 栄

ルカ福音書3:15~22


◇洗礼者ヨハネは荒れ野でユダヤ人の偏狭な選民意識を批判し、罪からの悔い改めを説いた。「7:洗礼を授けてもらおうとして出てきた群衆」に向かって「蝮の子らよ」と叫ぶ。そして今日の箇所からその「群衆」(オクロス)に替わって「民衆」(ラオス)が登場する。前者は不特定多数であるのに対して、後者は特定の集団や共同体を指す。民衆は「15:メシアを待ち望んで」いた人々である。

◇「群衆」は洗礼を自分高めるための手段と考えていた。しかしそんな形だけの洗礼を受けても「7:差し迫った神の怒りを免れる」ことはできない。「17:脱穀場」で実と殻が選り分けられるように、人間も正しい者とそうでない者とが厳密に分けられる。赦しは決して容易に得られるものではない。

◇しかしヨハネはそのような恐ろしい裁きについて語った後で、「18:民衆に福音を告げ知らせた」。「福音」は「良い知らせ」の意味。赦されるはずのない我々が赦されたという良い知らせだ。それがメシア=救い主によって可能となる。「民衆」はこの「15:メシアを待ち望んで」いたのだ。

◇「21:民衆が皆バプテスマを受け」た時、イエスも彼らと共に、彼らの一員であるかのように洗礼を受けられた。すると聖霊が降り、「22:あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神のみ声が聞こえた。主イエスの決断と行動に神の承認が与えられ、祝福が注がれたのだ。

◇12月19日の降誕祭礼拝において、6名の方々と1名の幼子が受洗した。民衆と共に洗礼を受けた主イエスは、あの時も7人の隣にいて、7人と共にひざまずき、共に水をかけられるために頭を垂れていた。

◇洗礼は古い自分に死んで、新しい命を生きる者とされること。自分を高めようとする「追求型」から脱却し、神の恵みによって生きる「信頼型」に変わること。「追求型」には満たされない不満と不安がついて回るが、「信頼型」には感謝と平安がある。

◇そのような根本的転回(=救い)をもたらす壮大な事業が行われる場が教会である。教会のいのちは信徒(ラオス=レイマン)の存在と働きにある。教会の事業に積極的に参加する者たちを、神は「わたしの心に適う者」と呼んで喜んで下さるに違いない。

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