礼拝説教


2010/12/26 <歳末礼拝>

       「神は光」

副牧師 姜キョンミ

ヨハネ福音書1:1〜2:2


◇ ヨハネの手紙はユニークで不思議なイエス・キリストの紹介の仕方をしています。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について」というのです。「命のことば」である主イエスを経験したので、そのことを伝えたいと言っていますが、それは、自分の経験や情報を伝えたいと言うだけでなく、そのことを伝えることによって、「あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」と言っています。御父と御子イエス・キリストとの交わり、命にあずかる交わりへの招きを語っているのです。

◇5〜7節の御言葉では、神と交わりがある者は罪を犯さないと書かれ、8〜10節では、私たちは罪人であると書かれており、互いに矛盾するような印象を受けます。ここで私たちが注意しなければならないのは、部分だけを取り出すと間違いが生じてしまうということです。8節で、人は罪を犯すと書かれている以上、クリスチャンになったら罪を犯さなくなり、罪を犯すのは救われていないからだという主張は間違いです。つまり、光の中を歩む=罪を犯さない、ということではないのです。

◇「光の中を歩む」とはどういう意味なのでしょう。ひとつは正しい行いをすることと捉えられます。自分が善を行うならば、神様は救って下さると考えることがあります。しかしこれは、あくまでも自分の力、業による救いです。キリスト教は私たち人間は罪人で、力の無いもので、それを承知の上でキリストは私たちを受け入れて下さるという神様の贖いが根本にあります。ですから光の中を歩むとは、正しい生活をするという意味ではなく、神様の光の中であるがままの私で生活をするということなのです。

◇光の中を歩くと、あるがままの自分が見えてきます。不完全で弱い自分が見えてきます。よい行いをするということよりも、神さまの光に照らされて、あるがままの自分で歩もうと努める。そこからはじめて清められる喜び、許される感謝が心から湧き上がってくるのです。

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