礼拝説教
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2010/10/31 <降誕前第8主日礼拝>

       「産みの苦しみの今」

協力牧師 中野 実

マタイ福音書24:1〜14


◇マタイ24章は、主イエスが終末について語っている個所である。なぜ日常生活に精一杯の我々がそんな分かりにくい終末について思いをめぐらす必要があるのか?それは、終末信仰が我々の希望を、我々の将来を産み出す重要な原動力になるからである。

◇分かりにくいという点では、我々の将来もまた分かりにくい。それゆえ、将来をめぐって我々は多くの悩みと苦しみを味わっている。主イエスは今日の御言葉において、そんな我々に悩みと苦しみに耐えて、担う力を与えようとしておられる。

◇そこで注目したいのが、24章8節である。主イエスは言われる。「しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである」。我々の苦しみはすべてはっきりと望みをうちに持っている苦しみである。苦しみに満ちた歴史を歩む教会は、希望が持てずに苦しみ嘆くこの世の多くの人々に寄り添いながら、我々の苦しみが、新しい世界、将来を創造しようとされる神の御心に仕える「産みの苦しみ」とされている事実に希望をおく。

◇このように語られる主イエスは、このあと、受難と十字架への道を進まれる。主イエスの受難も神の新しい創造の御業に仕える「産みの苦しみ」(希望をうちに秘めた苦しみ)だった。主イエスの苦しみを通して、新しい人間が誕生し、新しい世界が産み出された。主イエスの十字架の苦しみは、神を忘れ、神の御心に反して生きてきた我々をかけがえのない大切な神の子として回復するための苦しみだった。

◇主イエスの苦しみはまた、復活の出来事を産み出した。それによって、我々を支配して来た死を滅ぼしてくださった。それゆえ、我々の死は決して終わりではない。死を突き抜けていく新しい命の誕生を我々は大胆に信じられる。

◇そのような主イエスの苦しみを心に刻みつけながら、我々も人間の知恵をはるかに超えた神のご計画のうちにあることを信頼して歩み続けたい。主イエスの苦しみは、新しい世界の誕生を望み、それを実現するために不可欠な苦しみだった。そのような苦しみを経験してくださった主イエスが我々と共に歩んでくださるが故に、我々は苦しみの中にありながらも、その苦しみを担う勇気と希望が与えられる。

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