礼拝説教


2010/10/10 <世界聖餐日礼拝>

       「人間に従うより神に」

牧師 大村 栄

ダニエル書3:13〜27


◇シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの少年三人は、ダニエルと共に紀元前600年頃、捕囚としてバビロニアに連れてこられた。才能と知恵があって宮廷で重用され、これを妬む者たちに憎まれて罠に掛けられた。ネブカドネツァル王の建てた金の像をひれ伏して拝まない者は、「直ちに燃え盛る炉に投げ込まれる」との取り決めによって彼らは引き立てられるが、「17:わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。18:そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません」と冷静に応える。

◇必ず神が救ってくださる、しかし「たといそうでなくても」(口語訳)、信仰を捨てないと彼らが言いうるのは、たとい現世で救われなくても、未来に希望があると確信したからだ。日本統治下の朝鮮半島で神社参拝に抵抗し、死刑囚となった安利淑女史が後に書いた『たといそうでなくとも』という本がある。彼女もその言葉を口にしながら抵抗した。

◇招詞に読んだ使徒言行録5:29「人間に従うよりも神に従わなくてはなりません」は、迫害の中でペトロが語った言葉。たとえ地上の生活における安定が得られなくても、肉体の生死を超えた神のご支配に委ねて生きようとする勇気と確信に満ちた言葉だ。 その信仰が2000年の教会の歴史を支え、150年の日本のプロテスタント伝道を支えてきた。

◇献身的な努力を捧げた多くの宣教師たちの一人であるエリザベス・クラーク先生は、1948年に24才で日本へ派遣され、福岡女学院、活水学院、青山学院女子短期大学で多くの女子学生を教えた。先生の働きも地上的な評価を求めてではなく、たとえ世に認められなくても、「たとえそうでなくとも」、神の喜びたもうことと信じてなさってきたことだった。

◇シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの3人は、現世に救いがなくても神を信じる信仰を貫いた。安利淑女史もクラーク先生も、そして多くの人々がその信仰に生涯を捧げ、遣わされた各地において「人間に従うよりも、神に」従う働きを全うされ、それによってそれぞれの所に、人間の支配にまさる、永遠に続く神の愛の支配の豊かさを証ししてきた。私たちも、そのための器として用いられたい。

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