礼拝説教


2010/10/3 神学校日礼拝

       「私たちの国籍は天にある」

東京神学大学学長 近藤 勝彦先生

フィリピ書3:17〜21


◇人間関係に破綻が起こるとき、私達は何者であるのかがわからなくなる。アイデンティティの危機である。しかしそのとき、聖書は明確に「私たちの国籍は天にある」と語る。それが生きる支えになる。 「天」とは、主の祈り(「御心の天になるごとく」)によると、既に神の御心がなっている場所であり、恵みをもって神が執り成しておられるところである。私たちの国籍が天にあるということは、私達が主イエス・キリストのものとなっている、ということである。

◇私達は、自分たち自身の完全によって生きているのではない。不完全で未熟であるけれども、神にとらえられている。しかし、フィリピ書によれば、自分を完全だと思い、自分たちの力で天に行けると思っていた人たちがいた。律法主義者か割礼主義者であろう。彼らは自らの完全を主張し、十字架の恵みを不必要とし、「十字架に敵対して歩んでいる」(18節)。彼らは「腹を神とし、恥ずべきものを誇りと」(19節)していた。

◇私達は何を生き甲斐としているだろうか。私達の生き甲斐が十字架と無関係であるならば、「腹を神としている」(19節)のではないだろうか。キリストの十字架以外が誇りであってはならない。キリストの十字架の信仰によってこそ私たちの方向性が定まる。天に国籍を持つことによって、救い主イエス・キリストが来られて、救い・希望が与えられる人生へと定められる(20節)。その希望とは、私達の痛む弱い「体」(21節)を「ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」(21節)希望である。

◇東京神学大学の卒業生で、板橋で開拓伝道をした牧師がいた。牧師の子どもとして育ち、召しを受けて、伝道者となるべく、神学校に入った。入学の際に戸籍を調べてみたところ、今まで自分を育ててきた父親が肉親ではないことを知った。自暴的になったが、父親が「われらの国籍は天にある」と告げた時に、迷いが消えた。

◇教会とは、国籍を天に持つ者の地上の集まりであり、いわば天の国の「大使館」である。神の国の大使館に入るものは、まことの神を神とすることによって、天の国の香りを放つ。伝道は、その本国の香りを伝える業である。

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