礼拝説教


2010/9/5 聖霊降臨節第16主日礼拝

       「聖なる無駄づかい」

牧師 大村  栄

マルコ福音書14:1〜9


◇ 「一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」。300デナリオン(一般人の年収程度)以上に売れる品の無駄づかいだと批判する声が上がった。しかし経済性や合理性の判断を超えて、本当に大事なのは何かを考えるべきだ。

◇ 彼女が香油を注ぎかけた相手は、神の子キリストに対してであった。この方との出会いにおいて、しばしば価値観の転倒が起こる。例えば主イエスがガリラヤ湖で漁師をしていた男たちに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)と言われた時、男たちは網を捨て、船を捨て家族までも捨ててイエスに従った。職業や家族という絶対的なものがその絶対性を失っている。

◇人間の価値観の王座を占めていたものが、より崇高なものにその席を譲って従属していく。そういう価値観の根本的見直しがなされるのが、キリストとの出会いにおいてなされるのである。

◇ 頭に油を注ぐのは、王の任職式の行為だった。女はキリストを自分の中の王座にお迎えしたのだ。また体に香油を塗るのは死体の処置でもある。王の任職と死者の葬りの一致。これは、この王が武力や政治力で民を支配するのではなく、ご自分の死によってすべての人間の罪の代理となり、そういう仕方ですべての民の救いを実現しようとしておられることを表す。これこそ最も「無駄づかい」に見える行動だが、しかし、ここにこそ人類の救いの道がある。

◇「9:世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」。記念となるのはこの女という人物ではなく、その行為そのもの。ゆえに名前は記されない。教会の歴史においては、無数の無名の人々の行為が主に捧げられてきた。真に「語り伝えられる」べきものはそれらの人々の、そして私たちの名ではなく私たちを突き動かすキリストの名である。

◇「愛は決して滅びない。信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(Ⅰコリント13:8,13)。この永遠に残る、最大の価値あるもの、すなわちキリストに示された聖なる「神の愛」を感謝をもって受けとめ、私たちもこの愛を行う者として頂けるよう、わが身を捧げて生きる者でありたい。

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