礼拝説教


2010/8/15 聖霊降臨節第13主日礼拝

       「わたしを憐れんでください」

牧師 大村 栄

マルコ福音書10:46〜52


◇エリコの町で物乞いをする盲人バルティマイは、主イエスが通り掛かるのを聞いて、「47:ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫ぶ。「憐れみ(エレオス)」は弱くて助ける者のない人を救う神の業。世の不正や不条理に悩む人にとって、いや自ら道を踏み外してしまった人にとっても、唯一の救いとなる(キリエ・エレイソンの語源)。

◇人々が黙らせようとしても彼は叫び続けた。そして主イエスに呼ばれた時、「50:上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」。その上着が王衣だったら捨てられなかったかもしれない。信じて待つとは、招きに応えて立ち上がる準備を絶やさないこと。持物に執着しないで、いざという時はすべてを捨てて主に従う備えをすることである。

◇「51:何をしてほしいのか」と問われて、「先生、目が見えるようになりたいのです」とはっきりと応えた。彼はこれを求めることに、人生の焦点を合わせていた。そしてキリストは応えて下さるという確信があった。この集中は必ずしも容易ではないが、他人の前ではできなくても、神の前でならできる。

◇バルティマイの待ち続けた姿勢、確信、一つの求めへの集中、応答する備え、それらが評価されて、「52:行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われた。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ書11:1)。確信を持って待ち続け、求め続け、備えを絶やさないことを「信仰」と呼ぶのだ。

◇バルティマイを叱って黙らせようとした「49b:人々」は、やがて主イエスの「あの男を呼んできなさい」との命令に従って、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と主の招きを取り次ぐ人となった。これが教会と私たちの役割である。

◇目が見えるようになったバルティマイは「52:なお道を進まれるイエスに従った」。十字架への道を歩むキリストの道を、我が道としたのだ。主の恵みへの応答と感謝から、人は献身と忠誠へと導かれ、やがて復活の勝利に共にあずかる者とされていく。

 
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