礼拝説教


2010/7/18 聖霊降臨節第9主日礼拝

       「信仰のない時代に」

牧師 大村 栄

マルコ福音書9:14〜29


◇主イエスが3人の弟子たちだけを連れて「変貌の山」に登って留守の間に、残る弟子たちの所へ、悪霊に取りつかれて口のきけなくなる病(てんかん)を患う息子を連れてきた父親がいた。弟子たちはこれを癒すことが出来ない。人々は弟子たちの無能を非難し、弟子たちは自分の無力を嘆くばかり。

◇山から下りた主イエスはこの有様を見て、「19:なんと信仰のない時代なのか」と嘆かれた。父親は主に、「22:おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と願った。すると主は言われた、「23:『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」。父親はこれに応じ「24:信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫んだ。どうせだめかも知れないとあきらめかけている自分を捨て去り、主が助けて下さると確信すること、この絶対の信頼こそが、人間にとって一番困難な、しかし大事なものだ。この少年は、「27:イエスが手を取って起こされると、立ち上がった」。

◇40年前の1971年、阿佐ヶ谷教会は「低迷」の時代を過ごしていた。阿佐ヶ谷教会だけでなく、当時の日本の社会と教会が未曾有の混乱の中にあった。共励会は事実上解体しており、礼拝の日に「阿佐ヶ谷教会解体」のビラが撒かれたりした。しかし教会はその年の7月24〜30日に伊豆大島の精神薄弱児施設・藤倉学園でワーク・キャンプを行った。議論や闘争に明け暮れしていた青年たちが、藤倉学園の障害のある子供たちとの出会いを通して、彼ら自身が主イエスに手を取って起こされ、立ち上がるような体験をしたと言えるだろう。さらには阿佐ヶ谷教会自体が、そのことを通してあの時代の「低迷」を乗りこえる力を得ていったのである。

◇主イエスが「19:なんと信仰のない時代なのか」と嘆かれ、あの父親に言われた、「23:信じる者には何でもできる」という宣言は、現実を超えて未来を信じる希望を与える言葉だ。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ書11:1)。そのような未来を信じる希望を、教会はこれからも「信仰のない時代」に向かって証言し、宣べ伝えていくのである。

(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com