礼拝説教


2010/5/9 復活節第6主日

       「母心の喜び」

          

伝道師  五十嵐 成見

ヨハネ福音書16:12〜24


◇今日は母の日。礼拝堂に母上のために献花されたカーネーションが飾られている。この花の美しさが私達の礼拝に潤いをもたらしている。

◇「女は子どもを産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。」(21節)私たちは誰だって悲しみたくも苦しみたくもない。しかし、主イエスは、それを「時」と言われる。

◇ オランダのカトリック司祭ヘンリ・ナウエンが、知的障碍を持つ人々の共同体であるカナダのラルシュ共同体に赴任した時の事。直前、個人的な理由で大きな苦痛を抱えていた。しかしラルシュで生きる人々を通して、その心の痛みを新しい見方で見るようになる。自分の悲しみ・苦しみが「もっと大きな苦しみの一部であることがわかってきた」。「生きているがゆえに味わう小さな痛み、ときに圧倒されるような痛みさえも、キリストの、より大きな痛みとわかちがたくつながっている。日々の生活で味わう悲しみは、キリストの、より大きな悲しみとしっかりとつながっているが故に、より大きな希望へとつながっている。わたしたちの生活の何一つとして神の憐れみから漏れるものはない。」

◇「悲しみは喜びに変わる」(20節)。悲しみ、苦しみを通してこそ、新しい発見、気づき、深い憐れみ、確かなる感謝が見える。苦しみの時が訪れたのなら、その苦しみに新しい意味を与え、私たちの心を開かせる時が必ず訪れる。地に埋められ消えたように思われる種が、いつしか美しい花を開かせるように。カーネーションの花言葉は「情熱」。母が壮絶な痛みを経験してでも子どもを産むのは、子どもに対する熱烈な愛情があるから。神は、それ以上の情熱をもって私たちの悲しみを支え、新しい花が開く時を待って下さる。

◇主イエスという花は私達のうちに咲いている。十字架の死の壮絶な悲しみを経験されたからこそ、キリストの花は私たちの心を慰め、潤わせる。「悲しみは喜びに変わる」。私たちは、この神の御言葉を信じていく。これこそ揺らぐことのない約束、必ず訪れる成就。だから私たちは生き続ける。生き続ける必要があり、生き続ける意味がある。
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