礼拝説教


2010/3/28 棕櫚の主日

       「救いの王道」

名誉牧師 大宮 溥

ヨハネ福音書12:12〜26


◇最初の棕櫚の主日の朝、主イエスはベタニア村からオリーヴ山の麓を通り、キドロンの谷に下りそこから朝日に輝くエルサレムの町に向かわれた。沿道の群集は棕櫚(ナツメやし)の枝を打ち振って歓迎し、主は子ろぱに乗って入城された。神の国が来ることを告げる入城である。

◇群集はユダヤ独立の勇士を期待した。しかし、主イエスは御自分がそれとは異なるメシヤであることを示そうとして、軍馬でなく、「子ろぱ」に乗られた(ゼカリヤ書9:9)。そして十字架によって神の国を築かれたのである。

◇「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24節)。これは愛の極致を示している。主は「人が友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)と教えられたが、キリスト御自身、すなわち神御自身が、そのような愛をわれわれに与えてくださったのである。

◇カール・バルトはカルヴァンの二重予定説を、「予定の鑑」としてのイエス・キリストに集中して深めた。神はキリストにおいて、御自分を滅びの受け取り手に、それに代わって人間を救いの受け取り手に定め、それを十字架上で実現したと、理解したのである。キリストが一粒の麦として死に、それによって全ての人間が救われるのである。

◇神の国を築くために進まれるキリストは、今もわれわれを神と和解させ、われわれを神の国の民として、力づけ生かしてくださる。わたくしは16年前の癌手術を終えて間もなくの棕櫚の主日と復活節にパッハのカンタータ140番と147番(主よ人の望みの喜びよ)を聞いて、生けるキリストに従う群れに加えられている喜びを新たにした。

◇主はご自身を「一粒の麦」とされたが、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」と語られた(26節)。新年度へと進み行こうとしている今、教会もわれわれ一人ひとり主に従い、「一粒の麦」としての生長を遂げたいものである。

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