礼拝説教


2010/3/14 受難節第4主日礼拝

       「これはわたしの愛する子」

副牧師 姜キョンミ

マルコ福音書9:2〜10


◇主イエスの受難予告によって始められた救いの業の告知が、今日の箇所で、締めくくられています。主イエスの救いの御業は、主イエスが苦しまれ殺されることによってではなく、栄光に満ちた神の支配によって終わるのです。

◇父なる神が、主イエスこそ、自分の愛する御子であることを示し、これに聞くようにと語られます。神様の栄光は、主イエスに聞くことによってのみ示されます。ペトロを始めとした弟子たちは、主イエスに聞けなくなっていました。ペトロは、主イエスを自分の願う方向へと導こうとしました。又、栄光の主のお姿が現された時、訳も分からないまま、自分の下に留めておこうとしました。語られることを自分の理解や願望に合わせようとすることも、良く分からないまま、自分の望む救いをもたらしてくれそうな救い主の姿に留まろうとすることもキリストに聞くことにはならないのです。キリストに聞くとは、常に、自分の思い描くキリストが崩され、新たな御言葉を受け続けることなのです。そして、御言葉に常に立ち返るのであります。

◇弟子たちはしかし、この時、復活について語られる主イエスの言葉を心に留めました。そして、復活の主と出会った後、主を讃美したのです。ここにはこの世でキリストに従って生きる者の姿勢が示されています。私たちは、十字架につけられた主が復活された出来事を通して、主イエスの栄光の姿を知らされているのです。そして終わりの日に主が再び来られ、神の支配が完成するのを待ち望んで歩んでいます。確かにその時が来ることを信じて、主イエスの御言葉を心に留めて歩むのです。主イエスの復活によって、終わりの神の支配の完成が先取りされて示されているからです。

◇御言葉に聞き、御言葉に留まる歩みは、繰り返し主の御言葉に心を留め、そこで示される苦しみと復活の栄光に包まれた主のお姿を新たに示されつつ歩むのです。私たちにとって神の栄光に触れた高い山とは、一週間ごとに集められ、守られる礼拝の場です。この場において、主の苦しみのお姿と共に、栄光に満ちた復活のお姿が示されるのです。

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