礼拝説教


2009/12/6 待降節第2主日礼拝 

       「明日を待つ信仰」

大村 栄 牧師

Iテサロニケ5:1〜11


◇「2:盗人が夜やって来るように主の日は来る」。「主の日」とはキリストが再び来る日。それは光の到来だ。闇夜のような現実にあっても、キリスト者は光の到来を信じ、目覚めておれと言われる。「5:あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません」。

◇こういう終末論的信仰が重視されるのは、戦乱が続く時などに多い。我が国でも第一次世界大戦の終わった1918(大正7)年頃に、内村鑑三が展開した「再臨待望運動」は熱狂的な運動だったと言われる。今日でも脅迫的に終末と再臨を語る異端的宗教がある。それによる家庭崩壊の例などを見る。

◇しかし内村の信仰は違った。「鑑三はキリスト再臨を『必要』としたのである。この『必要』の裏にあるものは深い絶望である。鑑三はただ絶望したのではない。神が見えてくるまで、『生けるキリスト』が必要となるほどまで、キリストが再び来給うのを待望するほどまでに、絶望したのである。再臨とは深い絶望の上に垂直に立ち上がった意志である。再臨とはほとんど極限の絶望と同義語といってもいいのである」(新保祐司著『内村鑑三』)。

◇私たちは真に絶望することを恐れ、安易な慰めに傾くが、内村は真に「絶望」し、そこに再び来たりたもうキリストを「必要」とした。それ以外に希望はないと確信した。再臨信仰は神の「約束」を信じて待つことだ。熱狂的で厭世的な悲観論ではなく、待つことのみを希望とする信仰だ。どこまでも交わらない線路のような平行線であっても、しかしそこに常に平行して存在する希望がある。その平行線に耐え続けのが、聖書の告げる真の再臨信仰である。忍び耐える「忍耐」ではなく任せ待つ「任待」だ。

◇アドベントにあたり、「主はいつ来るのか」と拙速に焦ったり、推測したりするのではなく、朝日の到来を待つ心をもって静かに待ち望みたい。16節以下の有名な言葉は、そのような、再び来たり給う主を待ち望む姿勢を表す言葉なのである。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。

 
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