礼拝説教


2009/11/22 降誕前第5主日礼拝 

       「人間にできることではない」

牧師 大村  栄 

マルコ福音書10:17〜31


◇金持ちの青年が主イエスに、「17:永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねた。これに対して主が、「十戒」の隣人愛の戒めを示されると、彼は「20:そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答える。しかし愛の戒めは「守る」ものではなく、「実践」するものだ。

◇そんな彼に主は「21:行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と命ずる。愛することは失うこと、捧げること。地上の富を放棄して神を中心とする価値観に生きる者となれ。それが隣人愛の究極だ。それを聞くと、「22:その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」。

◇主は「25:金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われた。金持ちでなくとも、自分の持ちものに執着しているならば、人は神の国に入ることは出来ない。弟子たちは「26:それでは、だれが救われるのだろうか」とつぶやき、主は言われた、「27:人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。あの青年のように、「何をすれば…」と人間的な可能性の中に救いを求めるのでなく、「何でもできる」神の可能性の中にこそ、真の救いを求めるべきだ。

◇そのあとペトロが主イエスに、「28:わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と誇らしげに言いだした。すると主は、真っ先に救いに入る資格があると自負するペトロたちに、「31:先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われた。人間の可能性で断定せず、それを越えた神の可能性に希望を見出したい。あの悲しみながら去っていった青年も、「後にいる多くの者」の一人に加えていいのではないか。

◇人間的には不可能にしか見えなくても、「27:人間にできることではないが、神にはできる」と信じていこうではないか。「お言葉どおり、この身に成りますように」と委ねきることが出来たなら、そこにマリアの身の上に起こったような、偉大な神のみ業が生じるに違いない。人間の可能性でなく、偉大なる神の可能性に生きる者でありたい。

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