礼拝説教


2009/10/25 在天会員記念礼拝 

       「わたしは復活であり、命である」

名誉牧師 大宮 溥 

ヨハネ11:17〜27、32〜44


◇今日われわれは阿佐ケ谷教会に関係する400名以上の教友を覚え、天と地を包む「聖徒の群れ」が生ける神の御前に出ている。その中でも特に昨年から1年間に召された方々への思いが新たである。世界的な神学者、経済、教育、科学技術の分野で貢献をされたような方々もあるが、しかし目立つ人生でなかったにしても、神を信じて上を向いて歩む、その人の存在そのものが、神の光に照らされて「星のように輝いている」(フィリピ2:15)。

◇ラザロの復活の物語は、ヨハネ福音書の中では、キリスト以外で、死人の中からの復活を伝える唯一の物語である。彼が瀕死の病に倒れた時その姉妹たちは主イエスにすぐに来てくださるように願ったのに、主は遅れて来られた、万事休すである。姉妹たちはその無念さを主にぶっつけている(21,32節)。

◇この厳しい現実を突きつけられて、主イエスは「涙を流された」(36節)。この涙は「共感」の涙である。キリストが深い愛をもって、人間の悲しみと痛みに触れてくださるとき、人間の力ではどうにもならない問題が、神の力によって克服され、解決されるのである。そのときキリストが「心に憤りを覚え」(33,38節)たのは、人間を死に追いやるような残酷な力に対して抗議されたことを示している。そして、死が奪い取ったラザロを、死に勝利する神の命をもって取り返されたのである。

◇復活して今も生きておられるイエス・キリストが、聖霊をもってわれわれと結びつき、そしてわれわれが信じて主を内に迎えるとき、われわれは死ぬべき人間から生まれ変わり、死ぬことのない人間とされていることがここに力強く示されている。この主の共感と復活の力が、われわれが今日追悼している先達たちの上にもわれわれの上にも注がれていることを信じ、われわれもそれによって慰められ、励まされ、主の愛に応えて、それぞれに与えられた人生を歩みたいものである。

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