礼拝説教


2009/9/6 聖霊降臨節第14主日礼拝 

       「究極の希望」

牧師 大村  栄

マタイ福音書13:44〜52 


◇ 「44:天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」。偶然に宝を見つけた農夫はひそかに自分の財産を売り払って資金を作り、畑を地主から買う。これまで彼の生活を支えていたものを一切そのために手放しても惜しくないという、価値観の大転倒が起こるのだ。その宝の発見は何の業績によるものでもない。私たちの人生にも、業績とは全く別に、神によって与えられるすばらしい宝が隠されているのである。

◇その畑を買った農夫はそれまでの雇い人ではなく、自分に与えられた宝を生かして用いようという自立的に生きる人となる。宝(恵み)の発見はそのように人生を換えていくものである。

◇45節の「真珠」の発見は畑の宝と違って、専門家が探し求めた結果与えられたものである。神の恵みを得るには偶然を待つしかないのではない。熱心な探求の結果与えられるものでもある。

◇パウロはその宝を「キリストを知ることのすばらしさ」と言い換える。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」(フィリピ3:8)。

◇ 「47:また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。48:網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる」。ガリラヤ湖の網は夜の間に仕掛けられ、朝日と共に曳き上げられる。夜の海に沈められる網は、闇にうごめく様々なものに触れるだろう。しかしそこに隠れた宝も見逃さない。やがて朝日と共に網は曳き上げられ、隠れていた宝を人間の手にもたらす。

◇その時がやがて来ることを知っている者のことを、「51:天の国のことを学んだ」人と言う。その知識を与えるのが「啓示」の光だ。「主はわたしの光、わたしの救い」(詩編27:1)。真の希望を指し示すその光の中で、「悩み多き世もさながら、み国の心地して」(讃美歌513)と歌うことができる。これが「天の国」を生きる信仰であり、私たちの「究極の希望」なのである。「いざや伝えん世にあまねくこの良きおとずれを」。



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