礼拝説教


2009/7/19聖霊降臨節第八主日礼拝 

       「イエスとの出会い」

名誉牧師 大宮  溥

ヨハネ福音書5:1〜9


◇主イエスは祭りのたびにエルサレムに上られた。しかしここでは賑々しい神殿でなく、暗く陰気で、人々のうめきの声が響いてくる「ベトザタ」の池に行かれた。この池は間歇泉で、その薬効を聞いて多くの病人が集まっていた。その中に38年も病に苦しむ人がいた。

◇主イエスは彼に近づいて「良くなりたいか」と訊ねられた。この人は長い病気に不感症になっていたのであろうか。難病治療に貢献された椿忠雄教授がここをとりあげて、同じ程度の難病患者でも、本人の精神的な態度によって、病気の進行に変化が生じると語られた。ベトザタの池畔の病人に出会われたとき、主は彼が肉体的のみならず、霊的にも病んでいることに気づかれ、それを自覚させようとされたのである。

◇彼は「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」と答えた。「わたしには人がいない!」。日本のキリスト教幼児教育に献身されたキュックリッヒ先生はこの言葉によって、婚約者が戦死した悲しみをキリストによって癒され、「わたしには人がいない」と嘆いている日本の子どもたちへの「人」になろうと来日された。主は「人なき人」の人になられる。

◇主が「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われると、彼は歩き出した。この「起き上がる」という語は「死より立ち上がる」「復活する」という意味も持っている。ヨハネ福音書は終末の希望が、生けるキリストによって今実現しているという「現在的終末論」を展開している。イエス・キリストがこの世に来てくださり、死んで復活されたことによって、神の教いは完成した。主に出会い、主と交わり、主と共に歩む者は、死によっても滅ぼされることのない命と力を、今既に与えられているのである。

◇今日の社会は「わたしには人がいません」と、孤独をかこつ人に溢れている。そのようなわれわれにイエス・キリストは真実の「人」となって下さる。そして、われわれ自身も「人なき人」の「人」、隣人として生きたいものである。

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