礼拝説教


2009/7/12聖霊降臨節第七主日礼拝 

       「とりなしの祈りを」

牧師 大村  栄

テモテへの手紙一2:1〜8


◇蓮池薫さんのインタビュー記事を読んだ。見出しは「祈るのをやめ、子どものために生きた。蓮池薫さん24年の拉致生活を語る」。「初めのうちは帰国を願って森羅万象に祈った。しかしやがて、不可能なことを祈っても駄目だ。子どもたちのためにここでそれなりに生きていこうと決意した」。

◇「森羅万象」とは宇宙空間に存在するすべての事物。あらゆるものに向かって祈ったとは、言い換えると、本当に祈るべき対象を知らなかったということだ。それでは祈りを無駄だと感じるのは当然だろう。しかし祈りを聞き届ける方がいることを信じ、取りなす方があることを確信して祈るなら、それはむしろ子どもたちのために真剣に生きる日々を根底で支えるものとなる。

◇「5:神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」。キリストによる取り成しと、それを通して神が受けとめて下さることを信じて私たちは祈るのだ。

◇「2:王たちやすべての高官のためにも(感謝の祈りを)ささげなさい」。為政者、権力者の中には、蓮池さんらを拉致した国の指導者など、間違った方向に国や世界を動かそうとしているように見える者たちがある。彼らの「罪の赦し」を求めるなら分かるが、「感謝を捧げなさい」とは何か。

◇それは神が彼らを含む「4:すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」ということへの感謝である。そしてその神の意志を実現するために「6:この方(キリスト)はすべての人の贖いとして御自身を献げられました」ということを感謝するのである。

◇「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ書12:15)。ひとの喜びに心底共感することは困難だ。しかし人の成功や繁栄を喜ぶのではなく、その人のためにも主イエスが「ご自分を献げられた」ことを喜ぶのだ。蓮池薫さんのように祈ることをやめると言わざるを得ないような失望の中にある人々にも、救いの時が来ることを信じて喜び、彼の希望を我が希望とし、それを我が喜びとして喜ぶこと。それが真の取り成しの祈りだ。

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