礼拝説教


2009/6/7 三位一体主日礼拝 

       「誰を遣わすべきか」

牧師 大村  栄

イザヤ書6:1〜10


◇預言者イザヤに神の召し(召命)が与えられた記事である。ある日、神殿での礼拝に参列していた彼に「セラフィム」と呼ばれる天使たちが現れ、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と神を誉めたたえた。主の栄光が堂に満ちあふれるのを彼は見たのだ。だから彼は叫ぶ、「5:災いだ。わたしは滅ぼされる。…わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」。神を見た者は死ぬと言い伝えられていた。しかしそれ以上に人は真実に神の前に立つとき、徹底的に自分を直視させられ、自分の汚れと罪を、深い恐れをもって自覚させられる。

◇しかし続いて赦しが与えられる。「6:セラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。7:彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された』」。このように罪の自覚とそれに対する赦しが実現する場が礼拝なのだ。

◇そして罪の自覚とその赦しは派遣に続く。「8:そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください』(2004年度の教会標語)」。こうやって用いられ、遣わされるところに私たちのいのちの意義が与えられていく。そこに神に生かされ、用いられて生きる人生の豊かさがある。

◇「9:主は言われた。『行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と』」。預言者は、神の言葉に耳傾けず、それゆえに悔い改めず、当然いやされもしない民の中へ派遣された。私たちも世の拒絶や無関心の中へと遣わされる。主イエスは弟子たちを伝道に派遣するのは、「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と言われた。しかし「恐れるな」とも言われる。

◇今年度の教会標語は、「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう」(詩編27:1)。主の日の礼拝ごとに光なる主を仰ぎつつ、何ものをも恐れず、世のただ中に遣わされて行くものでありたい。それを支え促す教会でありたい。

(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com