礼拝説教


2009/5/17 復活節第6主日 

       「静かにささやく声」

牧師  大村 栄

列王記上19:1〜18


◇ 「列王記」はイスラエルの南北王朝史。19章は紀元前9世紀、北王国イスラエルのアハブ王時代の出来事(16:29以下)。彼は「30:彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った」。異邦人(異教徒)の「31:イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した」。そういう不信仰に対して敢然と立ち向かったのが預言者エリヤ。

◇18章で彼はカルメル山上でバアルの預言者たち450人と競い合って圧勝し、それによって命を狙われる身となった。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」(19:4)と嘆くエリヤにパン菓子と水が与えられ、主の使いが言う、「7:起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」。神は試練を取り除いて下さるのではない。試練に耐える力を下さる。パン菓子はそれを象徴する。

◇エリヤはイスラエルの信仰の原点である「8:神の山ホレブ」(シナイ山)に逃れた。彼は「10:わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています」と嘆く。すると神は「18:わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」と語る。孤立を嘆く者に神は、あなたは一人ではない、あなたと共に戦う者を与えると言われる。15節ではこれからエリヤがすべき人材発掘についてを細かく命じておられる。

◇そのような神の意志が示されたのは、「激しい風」の中にではなく、風の後に起こった「地震」でもなく、地震の後の「火」の中においてでもなかった。「火の後に、静かにささやく声が聞こえた」。そこに神の語りかけがあった(11-12節)。神は情緒的にではなく、言葉によって啓示されるのだ。

◇礼拝の中心は神の言葉なる「聖書」である。それは五感に響く、感動的な言葉ではない。あくまで「静かにささやく声」である。しかしこれは試練に苦しみ、孤立無援を嘆いていたエリヤを奮い立たせ、新たな時代を開く人々を起こし、歴史を変えた神の言葉である。その神の言葉に立つ礼拝、その礼拝を中心とする教会を建てていきたい。

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