礼拝説教
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2009/2/8 創立85周年記念礼拝 

       「わが家は祈りの家」

牧師 大村 栄

マタイ福音書21:12−17


◇エルサレム神殿の「宮清め」をされた主は、預言者イザヤの言葉を引用して「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」と言われた。神殿は「神の家」と呼ばれる。創世記28章で不安な旅を続ける青年ヤコブは、神が彼と共におられることを知った場所を「ベテル(神の家)」と名付けた。出エジプトの旅には「幕屋」と呼ばれる可動式の聖所が同行した。カナンには先住民の礼拝所である「高台」が各地にあり、民はそこで礼拝をした。
◇前950年にソロモンがエルサレムに神殿を建設し、信仰の統一を目指したが、人々は一致よりも多様性を求め、それぞれの生活の場に聖所を引き寄せた。前7世紀にヨシヤ王が宗教改革を行い、「高台」をすべて排除して礼拝をエルサレム神殿に集中しようとした。しかし遠隔地からの礼拝者に便宜を図って、神殿の境内で供え物販売をゆるした。ここに主イエスの「宮清め」に通じる罪の源があった。
◇やがてソロモン神殿はバビロンに破壊され、補から帰還後の前516年に「ゼルバベルの神殿」を奉献。後にこれを大改修するのがヘロデ大王。大規模工事で建てられた壮大な第3神殿だったが、イエスの「宮清め」から間もなくローマ軍によって破壊された。
◇聖書にはもう一つ実在しなかった第四の「エゼキエルの神殿」がある。先週4日(水)の祈祷会で読んだエゼキエル書40章がちょうどその箇所だった。捕囚末期にバビロンで活動した預言者エゼキエルは、新しい神殿の幻を見させられた。それはソロモンの神殿よりもっと大規模で緻密な構造だった。人間的な思いを捨て、神の支配に委ねるべきことを示され、そこにのみ存在する希望に目を向けさせられる。このような「幻」を語る預言者の働きを、今私たちの教会が担うのだ。自分の思いに神を引き寄せた「高台」の過ちや、便利さや合理性を追求することによって破綻した神殿の歴史を忘れてはならない。
◇主イエスは人間の思いに神殿を利用しようとする者たちを追い出し、代わりにご自分のそばに寄ってきた「14:目の見えない人や足の不自由な人たち」に手を触れた。彼らは最も無力で神に頼るしかない、祈るしかない人々だ。私たちも最後は神に祈るしかない者だ。ただ主にすがる祈りの言葉を主は聞いて下さり、そのような祈りをする者へと私たちを招かれ、その「祈りの家」として教会を立てて下さる。

(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com