礼拝説教


2008/10/12 神学校日・伝道献身者奨励日

       「とりなしの信仰と祈り」

東京神学大学教授 山口 隆康 先生

マルコ福音書2:1−12


◇主イエスは中風の病人に語られた。「子よ、あなたの罪は赦される」。これは誰も語ることのできない、しかし誰もが求めている言葉、それが自分に語られるならほかに何も要らないほどの言葉だ。しかし人間がこれを語ると神を汚すことになる。主イエスが十字架につけられた理由は「汚し言葉」が原因だったとマルコは言う。最高法院で大祭司は主イエスが神を冒涜したと訴えた(マルコ14:64)。軍隊で言えば反逆罪に当たる。

◇ここでも主イエスの赦しの宣言を、「神以外にそれを語る資格はない」とした律法学者の判断は正しい。しかし「人の子イエス」にはそれをする権威があった。目に見える肉体のいやしと、見えない罪の赦しの宣言。「どちらが易しいか」と問われて即答できない弱さが彼らにあった。主はこの世の御利益的な「いやし」でなく、神の前での罪の赦しを示された。信仰とはこれを信じ求めることである。

◇病人をつり下ろした4人の者たち、「イエスはその人たちの信仰を見て」、病人の癒しと救いを宣言された。彼らは癒しだけを期待していただろうが、癒し以上のものを与えられた。彼らが信仰心を持っていたかどうかは問題ではない。しかし主イエスは彼らの中に、からし種一粒の「信仰」を見た。それは「身代わりの信仰」、「とりなしの信仰」である。

◇近代以降個人主義が信仰の世界でも重視されるようになった。その結果失われた「とりなしの信仰」を教会は大切にする。例えば未受洗者の葬儀や幼児洗礼は、教会のとりなしなしには出来ない。子供だけでなく大人も、本人の自覚のみで洗礼を受けるのであれば誰が可能だろうか。教会のとりなし、教会の祈りによってこれを受けるのだ。

◇我々がとりなしを忘れ、自分の救いだけに関心を持って集まっているとしたら、ここは寒々しい教会になるだろう。神を信じる私たちは、信じる者のためにも信じない者のためにも神の救いを求める。そのために、主イエスの元に隣人を運んでいくこと、それが伝道であり、それが信仰である。

◇信仰を持ちたい。主イエスに信仰を見ていただきたい。それなら一人の隣人を主イエスに運んで行こう。「その人たちの信仰を見て」救いを宣言された主イエスは私たちを見ていて下さる。とりなしの祈りを真実に捧げる信仰者でありたい。

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