礼拝説教


2008/9/7  聖霊降臨節第18主日

       「生涯は草のよう」 牧師 大村  栄

ヤコブ 4:13−17 


◇「14:あなたがたには、自分の命がどうなるのか、明日のことは分からないのです。あなたがたはわずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません」。人の生涯は長短によらず、誰も充分に満足して完了するとは言いがたい。何歳で死んでもそれは、「人生の中断」と言わざるを得ない。

◇私たちキリスト者は「人生の中断」を、特別な仕方で繰り返し生きている。それは日曜日ごとに礼拝を守る生活においてである。日曜日も教会に行かずに仕事を続ければもっと儲かるのに、もっと合理的なのに…。そういう思いを断ち切って、自分の望む人生を中断して日曜日は教会の礼拝に集う。それが教会生活というものだ。

◇この日曜日ごとの人生の中断において、私たちは大切なことを学んでいる。それは、自分の人生の主人が自分自身ではなくて、神であるという厳粛な事実である。人生の主を神に明け渡し、自分が根底で神につながって生きていることを取り戻していく、そこにこそ人生の意味を正しく知って、喜びに満たされる方法がある。

◇ある人が二人の石工に、何をしているのかと質問したら、一人は「私はこの石を切っているのです」と答え、別の石工は「聖堂を建てているのです」と答えた。この「石を切っている生活」から「聖堂を建てている生活」へと転換する転換点が、主の日ごとの礼拝なのである。一人一人がキリストの体の部分であり、それぞれの場所で神の国建設に参与している。主日毎の「中断」は、継続する日々の中で見失いがちな大切なことを取り戻させる。

◇と同時に、主の日ごとの中断は、人生最後の中断に備える時だ。イエス・キリストのご生涯こそ、まさしく「中断された人生」だった。主イエスは十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、あまりにはかない人生の中断を嘆き訴えられた。しかし神はこの方の人生の中断において惜しみなく愛を示され、三日目の日曜日の朝に、復活の勝利を与えられた。

◇それはまたすべての人の「人生の中断」が、決して神に見捨てられることではなく、むしろそこにおいてこそ、一人一人を神の愛に結び付けられる者とするためだった。すべての人がこのような生き方へと招かれている、その神の招きを宣べ伝えよう。

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