礼拝説教


2008/5/4  復活節第7主日礼拝

       「百匹の中の一匹」 伝道師 姜 キョンミ

ルカ福音書15:1−7

◇私たちに与えられたたとえ話、「見失った羊」「羊飼いの喜び」では、九十九匹よりも一匹が大切なのだということが言われているのではありません。この羊が特別な羊だったわけでもありません。見失われた一匹が他の羊であっても同じことなのです。ここで言われているのは、どこまでも神様が見つめられているのは「一人」だということです。一人一人が見られているということであります。

◇確かに、九十九匹の方が一匹よりも九十九倍大切と言えます。量で見ればそういうことになります。しかし、主イエスがここで言おうとされているのは、一人の大切さです。私たち一人一人に神様の眼差しが注がれているということなのです。そして、私を捜し出す為に、私に目を注ぎ、再びご自身の元に連れ戻す為に、神様は苦労をいとわれず、ついには愛する独り子主イエス・キリストを与えてくださったのであります。この一匹を愛おしむ神様の愛の現れが主イエス・キリストの誕生であり、十字架であり、復活なのであります。

◇羊飼いは見つけた羊を引っ張って連れてきたのではなく、まるで父親が子供を肩車をして帰ってくるように、羊の両足をしっかりつかみ、両側の肩に担いで帰ってきました。決して二度と見失うことのないように、二度と自分から離れないように、しっかり両足をつかんでいたと思います。これが羊飼いの、ここにいる皆さん一人一人に対する神様、主イエスの持続的な関心、持続的な愛であります。一瞬の出来事や状況によって変わる、あるいは消えてしまうような愛ではなく、どんな場合も変わらない、持続的に、最後まで責任を持って守ろうとする愛であります。

◇見失われた羊とは、自分が神様のものであることを忘れた者のことであります。実に、私たちが悔い改め、神様のもとに立ち帰る前の姿であります。しかし今、私たちは神の喜びを自分の喜びとすることが出来る者とされ、神の子とされました。どんな場合でも変わらない、神の愛が私たちを招いてくださいます。教会の礼拝において私たちは、私たちを捜しに来て下さる神様と出会います。そして私たちを見つけ出して心から喜んで下さる神様の喜びを知らされます。この神様の喜び、天の喜びの中で生きることこそが、教会の信仰なのであります。その神に応えていくことが出来る私たちになりましょう。

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