礼拝説教


2008/4/13  復活節第4主日礼拝

 「わたしを愛しているか」  伝道師 北中 晶子

ヨハネ福音書21:15−25


◇私達は「本当の思い」に苦しむことがある。理想と現実の間で、失敗と後悔の間で、誤解と真実の間で、「本当の思い」がまっすぐに実らないことは、孤独で、苦しい。

◇主イエスが十字架につけられる前、裏切りという失敗をおかしたペトロの抱いた苦しみを想像する。熱く愛している主に対して人々が敵意を抱いた時、ペトロは本当の思いを貫くことができなかった。まったく信頼に値しない、何の言い訳もできない裏切り。にも関わらず、主を愛しているというのがペトロの本当の思いだったはずだ。

◇復活の主はそのペトロに現れ、「私の羊を飼いなさい」と言う。ご自分に従う群れである教会を守るという大事な役目を与える。ペトロが信頼に値する立派な人だったからではない。裏切り、逃げ出し、大失敗をした弟子に向かって主が確認した唯一つのことは、「わたしを愛しているか」。

◇裏切ったペトロはもはやこの問いを素朴に聞くことはできない。信用されなくても仕方がない。だが本当の思いであればこそ、救い主は知っていて下さるに違いない。ペトロはもうそこに賭けるしかない。「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」。

◇このペトロに向かって復活の主は、「わたしについて来なさい」と言った。親しみと慈しみに満ちた表現で、ペトロのその後を予告した。殉教の道のりは周囲からは不本意なことの連続に見えても、ペトロの本意がよく表れている。ペトロの本当の思いを、主が受け止めて用いられたから。

◇「本当の思い」は誰もが持っている。なかなか形にならなくても、失敗したり逃げたりしても、それが本当であることは自分にはわかる、主にもわかる。主に従いたいという思いが真実ならば、どんなに弱く頼りなくても主が必ずその思いを用いられる。この点では誰も例外はない。私達を「地の塩、世の光」と呼び、そう「なりなさい」ではなく、そう「である」と宣言された主が、私達を今あるままに迎えて用いられる。

◇ペトロと共に、私達は主の問いかけに答えていきたい。「わたしを愛しているか」と、失敗しても裏切っても、主が問い続けていて下さる。

   
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