礼拝説教


2008/3/16  棕櫚の主日礼拝

 「十字架への道」  牧師 大村  栄

創世記22:1−18


◇アブラハムはイスラエルの「信仰の父」と呼ばれる。高齢になって与えられた大切な息子イサクを、モリヤの山で「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じられた時、どんなに苦しかったか知れないが、淡々とその命令に従った。「7:火と薪はここにありますが焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」と問う我が子に父は、「神が備えてくださる」と答え、二人並んで山を登っていく。

◇何も希望的観測のないところにも、神の備えがあると信じるのが信仰である。そして確かにそこに備えがあった。しかし彼はそれを確信して山を登り、主の「待った」が掛かるのを信じて息子を薪の上に載せ、刃物を振り上げたのだろうか。あるいは息子を殺しても、神はそれにまさるものを与えて下さると信じたのだろうか。違うだろう。理屈で理解してではなく、ただ神がそうせよと命じたから実行したのだ。これは「奉仕」の姿勢をあらわすものだ。

◇こうすれば良くなる、報われるという応報を求めて行うのではなく、ただそこに必要とされているから捧げるのが奉仕である。彼は「信仰の父」と呼ばれるよりも、むしろ愚直に神の命令に従い自分を献げた「奉仕者アブラハム」と呼ばれるべきではないか。神奉仕の姿勢をこそ彼から学びたい。

◇アブラハムにとって、我が子を犠牲に捧げるのは自分自身を捧げるのと等しい。その行動によって彼は神の決意を知った。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16、今日は3月16日!)。「与える」は「放棄する」と等しい。神とキリストは一体(三位一体)だから、独り子を放棄するとは自分を放棄することだ。神は完全な自己犠牲の「奉仕」によって愛を示して下さった。

◇父アブラハムと息子イサクが二人、押し黙ってモリヤの山へ上る姿は、ゴルゴタの丘に主イエス(と神)が上られた出来事を指し示すものだった。それは徹底した自己犠牲の道行きだった。しかしその山は「主の山」であり、その自己犠牲の奉仕の彼方に「主の山に備えあり」の祝福が成就した。

◇「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう」(詩編118:22-24)。主の山=十字架の丘に立つ教会を人生と世界の望みとして生きよう。

   
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