礼拝説教


2008/3/2  受難節第4主日礼拝

 「愛の打算」  牧師 大村  栄

ヨハネ福音書12:1−8


◇「みどりのしたたるベタニア村」(讃美歌128)にくつろぐ主イエスに、マリアが「純粋で非常に高価なナルドの香油」を注ぎかけた。これを見てイスカリオテのユダが、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と批判する。マルコとマタイの記事では、そこにいた人々が「憤慨して」、「無駄遣い」だと叫んだ。この高価な捧げものは本当に「無駄遣い」だったのか。

◇この会堂を建築する際にも、その資金を世の困窮にを救うために用いるべきではないかという意見があったのを覚えている。しかし教会を建てるのは人間の欲求を満たすためではなく、神への捧げものである。金銭の用い方の有効性などではなく、それらとは違う全く新しい価値観をここに見出すべきだ。「聖なる浪費こそ、創造性につながる」(P・ティリッヒ)。効率の良さばかりを考える合理的・打算的な態度は、神の御業の現れを阻むことになる。

◇「私がこんなに、命を捨てるほどの思いであの人を慕い、きょうまでつき随って来たのに、私には一つの優しい言葉も下さらず、かえってあんな賤しい百姓女の身の上を、御頬を染めてまでかばっておやりになった」。太宰治は短編小説『駆け込み訴え』の中で、自分の愛に応えてくれないイエスを憎み、裏切るユダの心理を描いている。愛することに価値を求め、見返りを期待するのは不純だ。マリアの行為は効率や有用性などを度外視し、応答も求めないとことん与える愛、「愛の浪費」であった。

◇「わたしの葬りの日のために」と言われるが、主イエスこそが応答を求めず、応報も期待せずに自ら命を捧げ尽くした方である。しかし応答はあった。三日目の復活である。無から天地を創造された神が何もかも失われたかに見えるところにも、いやそういうところにこそ新しい未来を開いて下さる。主に捧げる「愛の浪費」であったマリアの行為の先に、神の御業が起こる。ユダの「愛の打算」や「愛の迷い」には創造性は発揮されず、神の御業は起こらない。私たちは「愛の浪費」「聖なる浪費」を恐れずに、御業のために捧げきるものでありたい。

◇「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(エフェソ書5:2)。


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